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東京高等裁判所 平成2年(う)523号 判決 1990年8月29日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐々木実作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官八峠剛一作成名義の答弁書に、それぞれ記載のとおりであるから、これらを引用する。

1  控訴趣意一(特定不十分な訴因について有罪とした訴訟手続の法令違反がある旨の趣旨)について

所論は、要するに、本件公訴事実は、覚せい剤使用の日時を「平成元年七月下旬ころから同年八月九日までの間」という長期間を漠然と表示するのみであり、かつ、その場所も「栃木県内及びその周辺において」というものであるうえ、いかなる方法によって覚せい剤を使用したのかも表示がないので、審判の対象が特定しているとはいえず、被告人の防禦権の行使に重大な支障を来たすものであるから、このような特定の不十分な訴因について被告人を有罪とした原判決には、刑訴法二五六条三項に違反する訴訟手続の法令違反があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

所論にかんがみ、原審記録を調査して検討するに、本件起訴状記載の公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成元年七月下旬ころから同年八月九日までの間、栃木県内及びその周辺において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤若干量を自己の体内に施用し、もって、覚せい剤を使用したものである。」というものであって、本件公訴事実の記載は、使用日時、場所の表示にある程度の幅があり、かつ、使用量、使用方法の表示も具体的かつ詳細な特定を欠くことは、所論指摘のとおりである。

しかしながら、原審記録に照らすと、検察官は、原審第一回公判期日における冒頭陳述として、大田原簡易裁判所裁判官の発布した被告人の身体に対する捜索差押許可状にもとづいて、平成元年八月九日午後一時一五分から午後一時二〇分までの間に医師によって被告人の体内から採取された尿より覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出されたこと及びトラックによる運送業務に従事していた被告人は、平成元年七月一五日から同年八月九日までの間のうち、同月一日から同月三日までの間は小田原へ荷物を運送するため栃木県外に出たが、そのほかの期間は同県内に居た事実を立証する旨陳述し、右冒頭陳述に照応する証拠を提出し、一方、被告人においては、その尿中から覚せい剤が検出されているにもかかわらず、自己の身体に覚せい剤を使用したことを否認し、また、被告人の使用に関し目撃者もいないことが明らかである。

そうとすると、検察官は、本件公訴事実において、覚せい剤の体内残留期間(尿中への排泄期間)をもとに採尿時から遡って二週間程度の期間をもって犯行の日時を表示し、犯行場所についてもその間の被告人の行動状況から推認し得る範囲を表示し、使用量及び使用方法については具体的かつ詳細な表示をすることができなかったものと窺われ、従って本件公訴事実の記載は、犯行日時、場所の表示にある程度の幅があり、かつ、使用量、使用方法の表示にも明確性を欠くところがあるものの、本件には犯罪の日時、場所、方法等を詳らかにすることができない特殊な事情があり、検察官において起訴当時の証拠にもとづきできるかぎり特定したものと判断されるから、本件公訴事実の右記載は、覚せい剤使用罪の訴因の特定に欠けるところはないものというべきである。

所論は、覚せい剤使用の日時、場所等が漠然とした本件公訴事実の記載では被告人の防禦権の行使に重大な支障がある旨主張するが、被告人の尿から覚せい剤が検出されたことが立証された場合には、他人が被告人不知の間に被告人の身体に覚せい剤を使用したり、または被告人が覚せい剤であることを知らずに摂取したような特段の事情のある場合を除き、被告人が何らかの方法によって覚せい剤を使用したものと当然に推認され、この場合には、使用の日時、場所や具体的な使用方法ないし使用量の如何それ自体はいずれも犯罪の成否に影響を及ぼさないし、またアリバイの主張も防禦方法としてはとくに意味を持たないものと考えられる。

更に既判力や二重起訴ないし公訴時効等の訴訟条件の存否などに関しても、その存否が疑わしい場合には被告人の利益に従い、例えば使用の日時や場所の点で確定裁判や別件の公訴事実と重なる疑いのある起訴は、他の点で両者を識別することができないかぎり、既判力に触れ、あるいは二重起訴となる疑いがあるとされるべきは当然であり、公訴時効の関係でも、公訴事実に表示された期間の始期が基準となるものというべきであるから、被告人に特段の不利益を及ぼす余地もないものと考えられる。

そうとすると、本件公訴事実のごとき覚せい剤使用の日時、場所、方法等の記載によって被告人の防禦権の行使に重大な支障が生じるものとは考えられない。

右の次第により、本件起訴状記載の公訴事実は、覚せい剤使用罪の訴因の特定に欠けるところはなく、刑訴法二五六条三項に違反しないものというべきであるから、原判決には所論のような訴訟手続の法令違反は認められない。論旨は理由がない。

二 控訴趣意三(違法収集証拠であって証拠能力を欠く証拠を事実認定の用に供した訴訟手続の法令違反がある旨の論旨)について

所論は、要するに、原判決は「栃木県警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員作成の鑑定書」を証拠として採用し事実認定の用に供しているが、右鑑定書は捜索差押許可状により強制採尿された被告人の尿の鑑定結果を記載しているものであるところ、被告人は右の令状によって採尿のために栃木県大田原警察署留置事務室にその意思に反して強制的に連行されているが、右の令状は採尿のために被疑者を採尿場所まで強制的に連行することまでも認めたものではないから、これによって被採尿者である被疑者をその意思に反して強制的に採尿場所に連行することは許されないところであるばかりか、警察官らは、被告人を連行する際に背後から被告人の首を締めあげて地面に押し倒して殴る蹴るなどしたうえ、被告人を自動車に押し込むなどの暴行を加え、更に同署の留置事務室においても、被告人を強制的に机の上にのせて無理やりズボンとパンツを引き下げるなどしているのであって、強制採尿の前提行為にこのような法の容認しない違法行為が繰り返されている以上、採尿行為自体も違法無効であり、違法無効な手続によって得られた尿の鑑定結果を記載した本件鑑定書も違法に収集された証拠として証拠能力を欠くものというべきであるから、原判決には証拠能力のない証拠を事実認定の用に供した訴訟手続の法令違反があり、この訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

所論にかんがみ、原審記録を調査して検討するに、関係証拠によると、被告人の尿が採取されるに至るまでの経緯及びその間に生起した所論にかかわる事態の様相は、次のとおりであったものと認められる。すなわち、

①  栃木県大田原警察署刑事防犯課防犯係の警察官である金田茂徳らは、大田原簡易裁判所裁判官の発した被告人を被疑者とし、覚せい剤や注射器具類等を差押対象物件とした捜索差押許可状にもとづき、平成元年八月九日午前八時四〇分ころに当時の被告人の居宅(栃木県大田原市《番地省略》)の捜索を開始したが、捜索開始にあたり南側六畳間のベットに寝ていた被告人に捜索差押許可状を提示した際に、被告人の左腕肘付近の内側に注射痕様の赤色の斑点を認めたこと

②  そこで、金田警察官らが被告人に左腕をよく見せるよう求めたところ、被告人はこれを拒んだが、更に被告人の挙動やその顔貌などから被告人が覚せい剤を使用している疑いを抱き、尿の任意提出を求めたが、被告人は「小便は出ない。」などとして応じなかったこと

③  金田警察官らは、その後も引き続き被告人に尿の任意提出を説得し続けたものの、被告人は依然として「まだ出ない、待ってくれ。」としてこれに応じる気配を示さなかったため、同日午後零時一五分ころに大田原簡易裁判所に対し、被告人に対する覚せい剤取締法違反被疑事件について、被告人の身体を捜索場所とし、差押対象物を被告人の尿とする捜索差押許可状の発付を求める手続をとり、同日午後零時三五分ころ令状の発付を得たが、右捜索差押許可状(以下、これを「本件強制採尿許可状」という。)には、「捜索差押に関する条件」として、「強制採尿は医師をして医学的に相当と認められる方法により行わせること」との条件が付されていたこと

④  右被告人方居宅の捜索を終えた後、警察官らは同日午後零時五〇分ころから被告人の立会のもとに右被告人方居宅から約八〇メートル程離れた道路脇に駐車してあった被告人の友人が使用していたトラックの運転席の捜索などを実施し、それを終えた後、右道路脇付近に停車してあった警察車両付近において、金田警察官から煙草を吸いながらその場に立っていた被告人に対し本件強制採尿許可状を提示するとともに、同令状によって強制的に採尿できること及び採尿は医師によって行われる旨の説明がなされたこと

⑤  その際、金田警察官は約一メートルの距離をおいて被告人と正対し、その右側に二名の、その左側に三名の警察官らが立ち、半円を描くような形で被告人と対面しており、被告人の背後には警察官は居なかったこと

⑥  金田警察官から本件強制採尿許可状の説明を受けるや、被告人はやにわに両手で同警察官の左肩を突くようにして飛びかかってきたので、これを見た警察官の一人が被告人を抱きかかえるようにして引き止めたところ、被告人と右の警察官は路上に倒れ込んだが、被告人はなおもその場から逃げ出そうとし、あるいは警察官らに反抗して暴れる素振りを見せたため、警察官らが俯せに路上に倒れた被告人の足や肩ないし頭部を押さえつけるなどして被告人を取り押さえたが、その際に被告人が「痛い。痛い。」と叫んだので、金田警察官は、直ちに他の警察官らに被告人を起すよう指示したこと

⑦  右の指示を受けた警察官らは、被告人をその着ていたシャツを掴んで起き上がらせたが、その際に被告人のシャツの背部が縦に約四〇センチメートル程裂けるようにして破れたこと

⑧  その後、警察官らは、採尿場所として予定していた大田原警察署留置事務室まで被告人を同行すべく、その手足を押さえながら被告人を約二ないし三メートル離れた地点に停車していた前記の警察車両まで連れて行きその後部座席に乗車させようとしたが、被告人は手足をドアーにかけて乗車を拒んでいたものの、金田警察官から「令状が出ているのだから仕方ないだろう。」などと申し向けられるや、被告人はふて腐れた態度ではあったが、「分かった。」旨答えて乗車し、そのまま金田警察官らとともに大田原警察署へ赴いたこと

⑨  被告人は、同署の留置事務室において、改めて金田警察官から本件強制採尿許可状を示されたうえ、「もう一度、自分から尿を出す機会を与えるが、出るか。」と告げられたが、被告人は「勝手にしたらいかんべ。」と答えるのみで、なおも尿の任意提出に応じようとしなかったため、金田警察官は再度本件強制採尿許可状を示しつつ令状の内容を説明し、強制採尿を行う旨告げたところ、被告人はその指示に従って会議用のテーブルの上に乗り、自らバンドを緩めてズボンを尻部付近まで降ろしたので警察官がこれを引き下ろすとともに下着を脱がせたこと

⑩  そこで、大田原警察署の嘱託医である増山茂医師は、同署留置事務室において、同日午後一時一五分ころから同日午後一時二〇分ころまでの間にゴム製のネラトンカテーテル(直径約〇・五センチメートル、長さ約三〇センチメートルのもの)を用いて、会議用テーブルの上に仰向けに横臥した被告人の膀胱から約一〇〇ccの尿を採取したが、その折りにも同医師は被告人の顔面などに傷のあること等格別の異常を認めなかったし、被告人から傷の手当てを求められたこともなかったこと

以上のとおりである。

所論は、採尿のため被告人を大田原警察署留置事務室に連行するにあたって警察官らが突然背後から被告人の首を絞めて路上に押し倒したうえ殴る蹴るなどの暴行を加えた旨主張し、被告人は原審及び当審公判廷においてこれに沿う供述をしている。

被告人の述べるところによれば、被告人がおとなしくしていたのに、突然に警察官が「駄目だ。これを連れて行け。」と言うや、他の警察官がいきなり背後から首を絞めてきたとか、あるいは警察官らが突然「これは駄目だ、連れて行け。」と言って皆いっせいにかかってきたというのであるが、公務に従事していた警察官らが、暴れたりなどの抵抗もせず、あるいは逃走等の気配も示さなかった被告人に突然襲いかかり暴力を振るうがごとき事態は、いかにも考え難く、被告人の供述するところは不自然であって、他の関係証拠と対比して検討するとたやすく信用できず、更に本件全証拠を精査しても、他に警察官らが被告人に対し所論のような暴行を加えたことを認めるに足りる証拠はない。

右のとおり、本件全証拠によっても、大田原警察署留置事務室において強制採尿されるまでの過程において、被告人が警察官らから所論のような暴行を受けた事実は認められないから、所論のうち本件強制採尿許可状にもとづく採尿の過程に警察官らが被告人に殴る蹴るなどの暴行を加えた違法があることを理由として本件鑑定書の証拠能力を否定する主張は、その前提を欠き採用することができない。

また、所論は警察官らが本件強制採尿許可状にもとづいて被告人をその意思に反して強制採尿場所である大田原警察署留置事務室まで強制的に連行した点も違法である旨主張するところ、前記認定の事実に徴すると、被告人は、警察官から本件強制採尿許可状を提示されて採尿場所として予定していた同署留置事務室まで同行するよう求められるや、これを拒み、本件強制採尿許可状を示してその内容の説明にあたった金田警察官に飛びかかってきたため、他の警察官らが被告人を路上に押え込んで取り押さえたうえ、なお同署に赴くことを拒む被告人の手足を警察官らが押さえつつ約二ないし三メートル離れた道路脇に停車していた警察車両に乗せて同署留置事務室まで連れて行ったというのであって、このような一連の経緯を総合的に観察すると、被告人は、警察官から同行を求められたのに対し、これに全く自由な形で応じたものではなく、警察官らから一定の有形力の行使を受けて、警察官らが予め採尿場所として予定していた大田原警察署留置事務室まで同行するに至ったものといわざるを得ない。

ところで、前記の認定事実によると、本件強制採尿許可状には、「強制採尿は医師をして医学的に相当と認められる方法により行わせること」との条件が付されていたのであるが、右の条件を充足するためには、捜索差押の実施場所である採尿場所は、医学的に相当と認められる方法を採ることが可能な物的設備を備えた場所でなければならないことは当然であるが、それのみならず、強制採尿行為は、事柄の性質上、その採取場所の如何によっては被採取者である被疑者に対し著しい恥辱感ないし精神的な苦痛を与え、その人格の尊厳を損なうおそれがあることなどをも考慮すると、強制採尿は、医学的見地からはもとより、被採取者である被疑者の人格の尊厳等その人権保護の見地からみても、相当と認められる一定の物的設備を備えた場所において実施されるべきことが当然の前提とされているものと解すべきである。

そうとすると、前記の条件を付して発付された本件強制採尿許可状は、場所の如何を問わず被採取者である被疑者が現在する場所で直ちに執行されることを前提とするものではなく、被疑者が右のごとき医学的な見地及び人権保護の見地から相当と認められない場所に現在する場合には、これに適合した一定の物的設備を備えた採尿場所まで被採取者である被疑者を同行することを当然の前提として発付されているものというべきであるから、捜査機関が被疑者からの強制採尿を認める捜索差押許可状にもとづいて、自発的に採尿場所まで赴こうとしない被疑者をこのような採尿場所まで同行することは、刑訴法二二二条一項で準用される同法一一一条所定の捜索差押許可状を執行するにあたって「必要な処分」として許されるものと解するのが相当である。

そして、前記認定の事実によれば、本件強制採尿許可状を提示された当時の被告人の現在地は道路脇であったというのであるが、このような場所が強制採尿を実施するに適さないことは勿論であるから、自発的に採尿場所まで赴こうとない被告人に対し、金田警察官らが本件強制採尿許可状にもとづいて一定の有形力を行使して、被告人を採尿場所として相当とみられる物的設備を備えた大田原警察署留置事務室まで同行したことは、本件強制採尿許可状の執行に必要な処分として許されるところであるとともに、右同行にあたって警察官らが被告人に対して行使した有形力も、被告人が金田警察官に飛びかかってきたのを制圧するためにその場に押え込み、あるいは被告人の抵抗を排除し逃走を防止するためにその手足を押さえて警察車両に乗車させようとしたというにとどまるものであるから、被告人の抵抗を排除し逃走を防止するためにとられた必要最少限のものであって、本件強制採尿許可状の執行に必要不可欠な限度にとどまるものであったというべきである。

以上を要するに、金田警察官らが本件強制採尿許可状にもとづいて被告人を採尿場所として予定していた大田原警察署留置事務室まで同行した行為は、右認定のような有形力を行使した点を含めて、本件強制採尿許可状を執行するために必要な処分であって適法な行為であったものと認められる。

また、前記認定の事実によると、強制採尿を実施するにあたり、警察官らにおいて、被告人自身でバンドを緩めて尻部付近まで降ろしたそのズボンを引き下ろすとともにその下着を脱がせたことが認められるが、警察官らの右行為はいずれも本件強制採尿許可状の執行に必要な処分であって、これらも適法な行為であったものと認められる。

以上の次第により、被告人を大田原警察署留置事務室まで同行したこと等、採尿にあたって被告人に対してとった一連の措置は、右認定のとおりの有形力を行使した点を含めて、本件強制採尿許可状の執行にあたっていずれも必要な処分であって、警察官らがとった措置にはなんら違法な点はなかったものというべきであるから、採尿のために被告人をその意思に反して強制連行するなどの違法があったとして本件鑑定書が証拠能力を欠く旨の所論も採用することができない。この論旨も理由がない。

三 控訴趣意二及び四(事実誤認の論旨)について

所論は、要するに、原判決は、被告人の尿から覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出されたことや、その左腕の肘の内側に注射痕様の赤い斑点があったこと、あるいは警察官らが前記被告人方居宅を捜索した際の被告人の顔貌や挙動などを根拠として、被告人が覚せい剤を使用した旨認定したが、本件全証拠によっても、採尿に使用された紙コップやポリ容器に覚せい剤物質が付着していなかったか否かも明らかではないし、尿が鑑定されるまでの過程で覚せい剤物質が混入した可能性も否定し切れないことなどを考えると、被告人の尿からフェニルメチルアミノプロパンが検出されたかどうかは不明であるというべきであるし、更に被告人の左腕にあったという赤い斑点が注射痕であると断定できる証拠はなく、被告人の顔貌や挙動にしても、いきなり多勢の警察官らに自宅を捜索されれば驚くのが当然であって、これらの事実はいずれも直ちに覚せい剤の使用に結び付くものではなく、結局のところ、被告人が覚せい剤を使用したことは、本件全証拠によっても証明されていないものというべきであるのに、被告人を覚せい剤使用罪につき有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

所論にかんがみ、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せ考慮して検討するに、関係証拠によると、① 増山医師が被告人の体内から尿を採取するにあたって使用したネラトンカテーテルは、同医師が煮沸消毒のうえ消毒容器に入れて大田原警察署に持参したものであること、② 増山医師によって被告人の体内から紙コップに採取された尿は、直ちに同署留置事務室において被告人および増山医師らの面前で警察官によってポリエチレン製の容器に移されたが、右紙コップ及びポリエチレン製の容器はいずれも未使用のものであったこと、③ 被告人の尿を容れた右容器は、密閉された後、増山医師及び金田警察官が署名押印ないし指印したラベルが警察官の手で貼付されて封印されたうえ、増山医師がラベルと容器の間に割印を施したこと、④ 尿を容れた右容器は、直ちに警察官によって栃木県警察本部刑事部科学捜査研究所に届けられ、同研究所技術吏員松島和巳がこれを受け取ったが、その際に松島技術吏員は容器の封印が剥された形跡のないことを確認していること、⑤ 松島技術吏員は、右容器を受領した後直ちに容器内の尿中の含有物の分析検査等に着手したところ、右の尿から覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出されたので、これにもとづいて平成元年八月一六日付けで本件鑑定書を作成したこと、⑥ 同月九日に大田原警察署防犯課防犯係において採尿したのは被告人からのみであり、また前記科学捜査研究所が同日に尿の鑑定の依頼を受け鑑定を実施したのは、大田原警察署から依頼された本件のみであったこと等の事実が認められる。

右認定にかかる事実に照らすと、松島技術吏員が鑑定にあたって資料とした尿は被告人の体内から採取された尿であることが明らかであるとともに、採尿から鑑定に至るまでの一連の過程において被告人の体内から採取された尿に覚せい剤物質が混入したのではないかなどという所論のごとき疑念を差し挟むべき余地は一切見出すことができず、本件強制採尿許可状にもとづいて平成元年八月九日午後一時一五分ころから同日午後一時二〇分ころまでの間に被告人の体内から採取された尿それ自体に覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが含有されていたことが明白である。

右認定のとおり、被告人の体内から採取された尿それ自体に覚せい剤が含有されていたことが明らかである以上、他人が被告人不知の間に被告人の身体に覚せい剤を使用し、または、被告人がそれとは知らずに覚せい剤を摂取したこと等の特段の事情のないかぎり、被告人がなんらかの方法により覚せい剤を摂取して使用したものと優に推認することができ、仮に所論が主張するように、被告人の左腕肘付近の内側に認められた赤色の斑点が注射痕でなかったとしても、あるいはまた、警察官らが被告人の当時の自宅を捜索した際に示した顔貌やその挙動が覚せい剤の使用とは全く関係のないものであったとしても、これらの点をもってしては右の推認を左右することができないことは勿論である。

そして、関係証拠によれば、人が摂取した覚せい剤がその体内に残存する期間は概ね一ないし二週間程度であるとされているところ、被告人は、平成元年七月下旬ころから同年八月九日までの間は、同月一日ころに仕事で栃木県大田原市と神奈川県小田原市との間を往復したのを除き、終始栃木県内に居たことが認められるとともに、右の期間内に他人が被告人の気付かない間に覚せい剤を被告人の身体に使用したことや被告人が覚せい剤をそれとは知らずに摂取したことを窺わせるような事情のなかったことはもとより、覚せい剤取締法一九条各号所定の除外事由の存在しないことも明らかである。

そうすると、被告人が平成元年七月下旬ころから同年八月九日までの間に栃木県内及びその周辺において覚せい剤若干量を摂取して使用した事実は、関係証拠によってこれを優に認定することができ、この認定に反して所論に沿う被告人の原審及び当審公判廷における供述や捜査官に対する各供述調書中の記載部分はいずれも信用することができず、更に本件全証拠を精査しても、他に右認定を左右するに足りる証拠はないから、原判決の認定判断は正当であって、原判決には所論のような事実の誤認はない。この論旨もまた理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 船田三雄 裁判官 松本時夫 川原誠)

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